年中連休の身にしても、世間に日常が戻ってくると、やはり心持ちは変わります。




2004年5月06日の title句(前日までの二句を含む)

May 0652004

 なつかしき遠さに雨の桐の花

                           行方克巳

語は「桐の花」で夏。もう咲いている地方もあるだろう。淡い紫色の花は、それ自体が抒情的である。近くで見るよりも遠くから見て、煙っているような感じが私は好きだ。本場の一つである岩手では県の花にもなっており、花巻あたりの山中で見ると、そぞろ故無き郷愁に誘われてしまう。我知らず、甘酸っぱいセンチメンタルな感情のなかへと沈んでゆく。句の場合には、そんな情景に明るいはつなつの雨が降っているのだから、その美しさはさぞやと想われる。「なつかしき遠さ」は、作者が遠望している桐の花までの実際の距離と、そして郷愁の過去までの時間の経過とを同時に示しているわけで、巧みな措辞だ。変なことを言うようだけれど、この句の良さは、使われている言葉の一つ一つが、いわゆる「つき過ぎ」であるところにあると思った。ひねりもなければ飛躍もない。ただ懐旧の情にそのままべったりと心を寄せている趣が、かえって句を強く鮮かにしているのだと……。妙にひねくりまわすよりも、こういうときには思い切って「つき過ぎ」に身をゆだねてしまったほうが、逆に清潔感や力強い感じを生む。考えてみるにそれもこれもが、素材が桐の花であるからではなかろうか。人がいかにセンチメンタルな感情をべたつかせようとも、桐の花にはそれをおのずから浄化してしまうような風情があるからだろう。そうした風情をよくわきまえた一句だと読んだ。見たいなあ、桐の花。残念なことに、我が家の近隣には見当たらない。「俳句」(2004年5月号)所載。(清水哲男)




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